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sakaT’s diary

不登校生徒が増えてきました。フリースクールが人気だとか・・・。学校は生徒にとってつまらないところ。うざいところ。・・・なのでしょうね。

289《自己を振り返る時間》

道徳から
 M新聞の随筆欄に次のような記事が載った。「この世に生まれて、何も他人のためにできなかった。そこで、便所の草履を、向きを変えてそろえて脱ぐようにした。以来、十年あまり、どんなときも忘れないでそうすることにしている」それが話題となるのだが、実は筆者がその本人だとわかってしまう。別の新聞にそのエピソードを書くと、また違う読者から投書が届いた。「私もあなたのなさるようにしたい。人に見せないことなので忘れずにできそうだ」と。筆者は、このような体験を通して、ごく小さい自分のしつけでも、「私」を支配していると考える。また、1つ小さいことでも必ずやると決めることで、他のことでも不親切にできなくなったともいう。考えるよりも何か始めることの方が大切だとも。

 移り変わりの激しい現代社会の中で、いかに自分を見失わないでいくか。これはとても大変なことです。ふと気づくと、流行に流されていると感じることもあります。多感な中学生にとって、いかに自分として生きていくか、これはとても大切な課題です。人には分からなくても、自信を持ってしていること、こだわりを持って続けていること。これが人と違う自分らしい自分を形成するために必要だと考えています。(もちろん友だちのために先輩のために、家族のために、教師のために、ペットのために、日本のために、世界のために・・・を考えての行動が前提ですが。)

Aさん
 道徳の本の人は、トイレの草履をいつもそろえることにしているってあったけど、もしかしたら私の身近にそういう人がいて、その人がそろえたスリッパを私が履いているかもって考えると少し恥ずかしい。人の履くスリッパまで丁寧にそろえてくれる人がいるのに、気づかないで平気でバラバラにする人もいるっていうのは変だと思う。私がもしそろえるほうだったらばかばかしくなってやめてしまうと思う。やめない人はすごい人だと思う。まだ、誰にも言ったことないけど、私もずっとやってきたことがある。ほんの一瞬だけど。部活の練習後、最後の礼をする時、私は隣の人より深く礼をするようにしている。他に人から見ればくだらない事かもしれない。私もどうしてやっているか分からない。技術面では先輩の足下にも及ばないけど、挨拶なら先輩よりできるよって言えるくらいの人になりたい。だから、入部したときから続けている。
→やっぱりいましたね。3組にも。この生徒、輝いているんです。

 Bさん
 私も小さなしつけを読んだら何か人のためになることをしたいな、できれば一生続けてみたいと思った別にほめられたいとかじゃなくて、これを読んで小さな事でも毎日トイレの草履の向きをそろえている人がいるということに感心した。先生の話の中でも出てきたようにそういう人は輝いてい見えるといっていたから私もしてみたくなった。
→こんな人たちが、クラスを温かくしています。

Cさん
  先生の話を聞いて、僕は「友だちのことを考えないでいるなぁ」と思った。僕は友だちから物を借りて返すとき、投げることがたまにある。そんなことが友だちを傷つけるとは思わなかった。これからは物を返すときは手で渡して「ありがとう」と言って返すようにしたい。
→この生徒、友だちが多いんです。

 昼野中学校 1年3組学級通信  平成12年12月11日(月)№20

※生徒名、学校名は、実名ではありません。

 道徳的心情を育て、それを道徳的実践力として具現化できるまでにするのが道徳という授業の本質だと私は捉えています。それでも、道徳的実践力はすぐ付けることのできる力ではありませんので、いつかその内にきっと発揮してくれるだろうという期待を込めた力ということになります。

 ということは、心の中にかなり長い間刻まれるような、印象に残る授業をしなければならないということにもなります。ですから、あまり主発問、補助発問という技術的なところに重きを置くと、その道徳本来の目的がぶれてしうことが往々にしてあるという点に結びつくのでしょう。

「森を見て、木を見る」。この言葉は、最近年配の先生に言われた言葉ですが、とても奥の深い言葉だと思いました。連想するに、発問重視の授業は「森を見て、木を見ず」といった表現になるのでしょうか。

 的を射た資料を使うと、生徒は勝手に、そして深く「自己を振り返ります」。

 道徳の授業で大切なことは、いかにクラスの生徒達を理解しているか。そして、どう育って欲しいのか授業者が明確に考えているかだと思っています。


タイの感動CM~かけがえのないもの(日本語字幕版)